はるか昔から、重い病気や障害を負った人たちはいました。
それは聖書などの記述からも理解可能です。
視覚障害や片麻痺、聴覚障害等の人たちとイエスの対話が、聖書にはたくさん出てきます。
その中の挿話の一つに、「彼が盲目になったのは誰のせいですか」とイエスに問いかける場面があります。
正確には以下のような記述です。
イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。
本人ですか、それともその両親ですか」。
この時代、ある人が病気や障害を負ったのは、自分自身や家族、親族の中に重い罪を犯した人がいて、その罰として与えられた。と考えることが一般的だったそうです。
だからこそ、問いかけには「誰が?」が含まれています。
当時の常識罰としての病気や障害でしたが、イエスはこの問いに以下のように答えています。
本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
このような常識を逆転させる論理は聖書には数多く出てきます。
私はクリスチャンではありませんし、宗教の研究者でもありませんが、聖書はいつでも枕元に置いているほどですので、この聖書の記述は、
私の仕事上でも人生そのものにおいても重要な個所の一つです。
さて、「神の御業が彼の上に現れるため」とはどういう意味なのでしょう?
聖書研究とは全く異なるだろうと思いますが、この分には2個の解釈があるのではないかと私は考えています。
一つは、聖書にも記載のある、病気や障害をイエスが癒すという物語です。イエスは伝道中に多数の障害者や重病の人たちを癒すということをしていました。
例えば目が見えない人に目をイエスが触ることで見えるようになったり、歩けない人が歩けるようになったりします。
そういう意味で神の御業が現れ、それを本人はその癒しを目撃した人たちに神の威力を知らしめる。という意味になるのかなと思っています。
そして、もう一つの意味として私が思うのは、これが私にも皆さんにも重要なことですが、
弱い人がいる時、そうでない周囲の人が支えてあげることで、人は善を行い、人が全を行うこと自体が神の御業だ。という解釈です。
現代においても、病気や障害は自業自得だといったり、罰が当たったとかいう人がいますね。
そのような幼稚な言説に対して、私たちはどう反論し、理解を得ることが出来るのか?
およそ2000年前に書かれたと言われる本に、その答えの一つが書かれているということを是非みなさんとシェアしたいと思います。
なぜ、理事長ブログでこのような話をするのか?つながりを見いだせない人もいるかもしれません。
しかし、医療や福祉と宗教、特にキリスト教は切っても切れない関係です。
そもそも、世界で最初の病院は、カトリックの修道院で生まれたからです。
現代においても世界中の医療機関は、公立や宗教組織運営のどちらかで、日本のような民間病院は世界的に非常に稀な事例なのです。
修道院がなぜ病院のようなものを作ったのか?病院のそもそもの目的や理想の姿は、原点に立ち返らないと私たちには見えてきません。
病院がなぜケガや病気の人を助けるのか?なぜそのような活動を人間は始めたのか?
わかっているようで、考えたこともないような、医療とキリスト教の関係の一部をご紹介いたしました。
by 理事長